今日は『ルポ 虐待 大阪二児置き去り死事件』
という本の紹介をします。
本書は、2010年夏に起きた
大阪二児置き去り死事件について書かれた本です。
事件の経緯と二児の母親の人生を辿りながら、
「なぜ事件が起きてしまったのか」について分析されています。
母親の芽衣さん(仮名)が、
「子ども達をアパート内に1ヶ月半以上放置したまま男と遊び回り、
子ども達を死なせてしまった」という事実だけを見ると、
「とんでもない母親だ」と
芽衣さんばかりが責められても仕方がないように思えますが、
どうやら芽衣さんにも、とても重くて複雑な事情があったようです。
芽衣さんは、虐待を受けたり、
話を聴いてくれる人が周りに1人もいなかったりと、
辛くて孤独な幼少期~児童期を過ごしてきました。
母親との愛着も、うまく形成することができなかったようです。
そんな中で、壊れそうな自分を保つために
芽衣さんが身に付けたのは、「解離」でした。
辛いことが起きると、その間の記憶を無くしたり、
難しい局面になると、自分の中のコントロールできない自分が動き出し
(別人格と言えるほどのものなのかどうかは不明)、
現実の問題を残したままに、別の世界・夢の時間へと突き進んでしまう。
(依存というより、防衛機制)
後から考えても、なぜ自分がそのような行動をとったのか、
芽衣さん自身にも分からない。
そのような解離の症状が、辛かった幼少期~児童期を通して
芽衣さんの中に根付き、どんどん強化されていきました。
それ以降の芽衣さんの人生は、
解離(と愛情飢餓など)によって翻弄されることになります。
馴染めなかった学校生活。
暴行を受けたこともありました。
やっと手に入れた幸せな家庭は、
解離によるものと思われる突発的な浮気によって
自ら壊してしまいました。
(愛着の問題も関係しているのかもしれません)
シングルマザーになって、2人の子どもを育てるために、
本当はやりたくない夜の世界の仕事を一生懸命頑張りますが、
仕事と子育ての両立が、思うようにできませんでした。
両親は2人共、頼れるような状態ではない。
「誰も助けてくれない」「甘えは許されない」
そんな信念にとらわれた芽衣さんには、
行政の支援を受けることもできませんでした。
(そうしようと行動したことはあったが、ちょっとしたすれ違いが有り、
「やっぱり誰も助けてくれない」という思いを強めただけの結果となった)
アパートの中で、周囲に誰もいず、
孤独に待っている2人の我が子達の姿に、
芽衣さんは、子どもの頃の自分を重ねて見ていました。
それが、芽衣さんにとっては一番辛い現実でした。
辛い現実に直面すればするほど、
自分の中のコントロールできない自分が動き出し、
夢の時間(ホストなど)へと突き進んでしまいました。
(子どものこと、借金のこと、嫌いな仕事のこと、失った家庭のこと……
いろんな面で、追い詰められていただろうなって思います)
子ども達のことは、とても大事に思っているし、
何とかしなくてはいけないことも、芽衣さんには分かっていました。
(放ったらかしのままでは死んでしまうということも
ぼやっと分かっていたけれど、
はっきり意識化できなかったのかもしれません)
それでも、芽衣さんには
子ども達の元に帰ることができませんでした。
どうして帰ることができなかったのか、
後になって考えても、芽衣さんには分かりません。
ただ、どうしても帰ることができなかったのです。
2013年3月。懲役30年の判決が確定しました。
元々、芽衣さんは、子どもを放ったらかしにして遊び歩くタイプでは
決してなかったようです。
幸せな結婚生活を、過ごしていた頃の記述より引用します。
母親になることに強い思いをもっていた芽衣さんは、子育てに熱心だった。
布おむつを使い、母乳にこだわった。
子どもの思いに寄り添う母親でもあった。
●杉山春著『ルポ 虐待 大阪二児置き去り事件』
(ちくま新書/2013/P160)より引用
むしろ、子ども思いの、いいお母さんだったようですね。
迫り来る現実と、解離の症状に翻弄された、芽衣さんと子ども達。
これも、虐待の連鎖のひとつの形でしょうか。
私には、芽衣さんだけが悪いだなんて、到底思えない。
どうか、天国に行った2人の子ども達の心が
癒されますように。
※本書に関しては、いろいろなご意見があるかと思います。
※今日の記事は、あくまで私の個人的な感想(私見あり)
ということでご理解ください。
今日も、ありがとうございます!
皆さまが、笑顔いっぱいでありますように!
はじめまして。
心理のプロのかたに、聞いていただきたいことがあります。
この本にでてくる「解離性~」とは、弁護側の招いた心理学の先生の判定です。
精神鑑定は別の精神科医がなさっています。
そして弁護側の主張する「解離性~」は
裁判ではとりあげられぬまま、判決確定しました。
なぜ裁判で採択されなかったのか?
そして、裁判で選択されなかった「解離性~」に筆者が全面的に依拠するのはなぜか?
本書を読んでも答えはありません。
「解離性~」について、しろうとの読者が納得できるような解説や論証もありません。
ただ「解離性~」だから・・・と書いてあるだけ。
ひとつ気になったのは、筆者のかたがTwitterで
「(「解離性~」と鑑定した心理学の先生が)自分は発言できる立場にないので(ルポを書いた筆者のかたに)どうか(自分が心理鑑定した結果を)大いにメディアに発信してほしいと告げられた」
との内容を書いていらっしゃること。
供述調書にカテゴライズされているのであれば、守秘義務が有り公的に発表できないのもわかりますが
そうではない、有力な説にすぎない(とみなされたもの)ならば
むしろプロの心理学者こそ、一般読者にわかるように(専門外のライターがもやがかった表現するよりずっと明快に)自著を発表するという適切な手段があると思うのですが。
私が理解がたりないせいもあるかと思いますが、なんだか胡乱(うろん)で、事実なら
・自説を世間に広めたい。でも言論の責任はとりたくない。だからライターにさせる。
・・・んじゃないかと邪推してしまいます。
また、生育期のトラウマに起因する「解離性~」
というと素人にはどれほど重篤なものかわかりませんが、
仕事上で重要なプロジェクト任されて激務だったり、
事故や近親の逝去などとてもつらいショッキングな出来事があると
後から思い出そうとしてもその当時の記憶がぬけていて
詳細が思い出せないことは一般人でもよくあることじゃないでしょうか。
そうしたこともふくめ解釈するにはあまりに広汎でとらえどころがなさすぎるために
(記憶違いや日常的な嘘、仮病やずる休みも範疇になりそう)
「解離性~」が公判で外されたのかなとも思いました。
「こんないいわけよく思いつくなあ」
と呆れているむきもあり、私もどちらかといえばこの側です。
乱文もうしわけありません。
たたみさん、こんにちは。
おっしゃる通り、本事件に解離の症状がどこまで影響しているのか
については、本書を読んだだけでは判断できないですよね。
また、解離の場合は、クライエントを前にして話を直接聴いた場合でも、
判断するのは容易ではないです。
それに、たたみさんも書いておられますが、
解離にも日常的に誰もに起こりうる、病的ではないものと、
社会に不適応を起こすような病的な解離がありまして、
その境目の判断も難しいところだと思います。
どうしてもとらえどころのない部分が含まれてしまいますので、
おっしゃる通り、心理学の先生には「責任を取りたくない」
という思いがあっても不思議ではないと思います。
また、精神科医の判定には、解離につきまとう不確実性に加えて、
今後の裁判(他の事件)への影響なども考慮されているのかなと、
個人的には思いました。
>「こんないいわけよく思いつくなあ」
たたみさんには、呆れておられるむきもあるのですね。
実際、そういうことも多いのでは、と私も思います。
最近、職場などでは「うつ病」を理由に休業を繰り返す同僚
(はたから見ると元気に見える)をフォローするために、
負担を強いられている人も多いと思います。
周囲の人間には、実際どうなのかが分かりにくい。
うかつなことも言えない。
それに加えて、解離の場合は本人すらも分かっていない。
なかなか難しいところですね。
こちらこそ、乱文、しかもとらえどころのない返答で
申し訳ございません。
コメントをくださって、ありがとうございます。