『トラウマを乗りこえるためのセルフヘルプ・ガイド』
という本を読みました。
著者は、オロール・サブロー=セガン先生(フランスの先生)。
トラウマによる症状の解説と認知行動療法的アプローチが主の本です。
事例を交えながら分かりやすくまとめられています。
本書の中に、不安障害の当事者または克服者には馴染み深い、
回避について述べられている箇所がありました。
ある場所に戻ることを避けながら、あなたが避けようとしているのは、危険ではなくて恐怖感である(予測)。
つまり<怖くなることが怖い>のである。
●『トラウマを乗りこえるためのセルフヘルプ・ガイド』
(河出書房新社/2006/P151)より引用
「怖くなることが怖い」
「(避けようとしているのは)危険ではなく恐怖感(予測)」
確かに実際の危険度は、感じている怖さよりもずっと小さいことが多い。
例えば、私が苦手だった朝礼当番には生命の危機はないし、
ほとんどの場合、失敗しても直ちに失業するわけでもない。
教科書通りの視点で解釈すると、確かにその通りだなぁと思いました。
でも、少し視点をずらして、体験者としてこんな風にも思いました。
本当に「怖くなることが怖い」だけ?
本当に「危険ではなく恐怖感(予測)」?
例えば、不安障害で悩んでいた頃の私の場合。
怖かった朝礼当番で考えてみると……
<なぜ怖い?>
激しく緊張し、身体が硬直して、頭も真っ白。
思うように話すこともできなくなってしまう。
激しい動悸。意識が飛んで行きそうになる。
のどがつかえて、声が出なくなる瞬間がある。
緊張している姿、硬直している姿、震えている身体と声。
皆に見られるのが怖かった。
冷たい視線を向けられるのが怖かった。
見透かされるのが怖かった。
見下されるのが怖かった。
……
確かに予期不安は恐怖感であり(不安感であり)、
予測ということはできますが、
当事者にとっては、存在を揺るがされるほどの大きな予測。
考えるだけで、飲み込まれてしまいそうになる程の強烈な予測。
元当事者としては、単なる恐怖感(予測)として
扱いたくはないなぁと思いました。
極めて実現する可能性が高いと感じている予測は、
もはや予測の範囲を超えます。
(元当事者だからこその視点かもしれません)
もっとリアルな。
もっと追い込まれるような。
もっと迫ってくるような。
全てを投げ出してでも、逃げ出したくなるような。
たとえ生命の危機はなかったとしても、
たとえ他の人にはどうってことのないことだったとしても、
確かに私にとっては「危険」は存在していたのです。
※見下されたり、馬鹿にされたりする危険。
※職場(実力主義)の人たちに、
仕事仲間としてみなしてもらえなくなる危険など。
(共に、当時の私の存在そのものを揺るがすほどの大きな危険)
その危険や恐怖感を克服してから何年も経ち、
カウンセラーになった今の私はこう思います。
クライエントさんが「危険」と感じているならば、それは「危険」。
まずは感じておられるままを大事に受け止めて、
そこから援助をスタートしていきたいと思うのです。
今日も、ありがとうございます!
皆さまが、笑顔いっぱいでありますように!